筒井康隆「虚人たち」です。
本の裏の「あらすじ」の部分には「誘拐された美貌の妻と娘の悲鳴がはるかに
聞こえる。主人公は必死の捜索に出るが…」なんて感じで書いてあるので
これを読む限りごくありふれたサスペンス小説に思えてしまうのですが
実はこれがとてつもなく実験的で他に類を見ない面白ヘンテコ小説となっております。
この小説、簡単に言うと小説のお約束事を徹底的に排除するというとてつもない
実験が行われているのですが、以下、箇条書き風にこの作品の面白い点(実験部分)を
書き出していきたいと思います。
★「省略」というお約束★
通常の小説はストーリーに関係のある範囲だけで物語が語られ
ストーリーに関係の無い時間帯や、関係の無い物事は全て省略されるのが普通です。
ストーリーの内容によって何百ページにもわたって数十分の出来事が描写されることも
あれば、たった1行で10年の時が経過したりしますし、物事についても物語とは
無関係な物事、例えば主人公がトイレに行って用をたすシーンや、毎晩ただ眠るだけの
シーン毎日の食事のシーンなどはわざわざ描かれず当然のように省略されます。
これは当たり前の様に行われる小説(に限らず映画でも漫画でも同様ですね)の
お約束のひとつですが、そのように「ストーリーとは無関係なことは省略する」という
お約束を「虚人たち」は完全に排除しております。原稿用紙1枚で大体作中で2分が
経過するように書いたと筒井康隆は言っておりますが作中に無駄なシーンの省略は全く
行われません。それは徹底していて、普通「ラジオがついていた」とだけ書けばすむ所を
ラジオから流れてくる番組の内容が延々と省略無しで描かれたり、特に何が起こるでも
ない食事のシーンが延々と描かれたり、通常の小説では確実に省略されるであろう
排泄のシーンも省略無しに描かれます。面白いのは、主人公が寝ているシーンの描写で
このシーンも省略無しに描かれるので白紙が10ページ近く続くことになります。
こんな感じで都合の良い省略が一切行われないのがこの小説の第一の実験です。
★「主人公」と「脇役」というお約束★
ここは筒井康隆「着想の技術」に分かりやすい作者の言葉があるので引用します。
「現実には、主人公であるとか、脇役であるとかいった人物は存在しません。
のべつ主人公であるという人物は、小説の中にしか登場しない。…いっそのこと
自分こそ小説の主人公だと自覚している人物ばかりを登場させたらどうか。
登場人物すべてが自分のそれぞれの物語の主人公であるという小説、当然その場合は
作中人物すべてが、自分は小説の中の登場人物であると自覚していることになります…」
普通の小説はかならず主人公がいて、その周りに脇役がいるわけですが「虚人たち」は
このお約束も排除してしまいます。それにより「主人公」と「脇役」という当たり前の
区別も無くなり登場人物すべてが自分の物語を持つ主人公のような存在になってしまいます。
僕はよく、名も無き脇役達から見たら主人公達はどんなに異様な存在であるかということを
思うのですが、例えば簡単な例で言うと、のびた君の家の隣に住んで普通の生活を営んで
いる名も無き登場人物は「ドラえもん」の存在をどんなに異様に感じているのだろうか…?
とか、ドラゴンボールの世界で西の都の一流企業に勤めているビジネスマンにとって
悟空達はどんな存在か?役員達による会議中なんかに、窓の外を見ると人間が空を飛んで
手から弾を出したりしながら、異星人と戦ってるわけで、そんな非現実な光景を目撃して
何を思うのか…?なんて感じで、普段僕たちは主人公の視点で物語を追うので主人公が
空を飛ぼうが、変身しようが別に驚きませんが、ごく普通の日常世界をおくっている
名前もない脇役から見たら、主人公達は相当「異様」なモノに映るはず。
「虚人たち」は、上記の「全員が自分の物語の主人公」の法則によってこれにまつわる
非常に面白いシーンが沢山出てきます。ストーリーは最初に書いたように、中年の主人公
(便宜的にここではあえて『主人公』と言わせてもらいますが)の妻と娘が何者かにより
誘拐され、彼女らを取り戻す為に、彼の大学生の息子と一緒に探しにでかけるのだが……
というものなのですが、例えば主人公の息子は、自分の大学生活において学園青春ドラマ
か何かの主人公を演じている存在なので、「誘拐された妻と娘を取り戻す」という
青春ドラマとはまるっきり無関係な父親の物語に食い込まれるのを非常に嫌がります。
また、主人公と息子がとあるレストランで食事をするシーンがあるのですが、その時
注文を聞きに来た中年のウェイターが突然目の前で壮絶な死を遂げます。
普通の物語なら、このシーンは何かの伏線か、主人公達に何らかの影響を与えるか
少なくとも何か意味のあるシーンでなければなりませんが、この小説においては
そのような意味はありません。恐らく、何か他の物語の主人公だった中年ウェイターにとって
それは彼が遂に死をとげる悲劇(?)のラストシーンだったのでしょう。
そんな他の主人公のラストシーンに遭遇してしまった主人公と息子は非常に面食らってしまいます。
私達は、例えば長い物語の最後に、ついに力尽きて倒れる主人公に涙を流したりしますが
そのシーンも例えば全然無関係な、たまたまその場に居合わせただけの他の登場人物から
見れば、こんなにもシラけるものなんだよ…とでも言いたげな逆からの視点がとても面白いです。
もうひとつ僕がこの小説で最も好きなシーンは、主人公がたまたま通ったある男の運転する
車に乗せてもらうシーンです。通常の物語であれば、この車を運転する男は単なる「脇役」
特に何かこの男が主人公に関係しているとか、または何か事件でも起こらない限り
車に乗せてもらうシーンごとカットされてしまう存在かもしれませんが、この「虚人たち」においては
この車を運転する男もまた、自分こそは主人公だと思っている登場人物の一人なわけです。
車に乗せてもらった主人公は、男と幾らか会話を交わすのですが、そのうちに異様な出来事が
起こります。その車の周りに宇宙から飛来したとしか思えないクラゲのような
寒天のようなイソギンチャクのような、ポリプのような不可思議なSF的存在が
大量に発生し車のフロントガラスに大量にくっつき始めます。当然、主人公の男は
今までの自分の物語では存在するはずのなかったそのような異様な存在の発生に大変
驚くのですが、車を運転する男は何の動揺も無く、それは特に特別な体験でも何でも無いと
答えます。恐らく彼は日常的にそのような不思議な存在を相手にしているSFか
ファンタジー等の物語の主人公か何かなのでしょうが
ここも逆の視点から見た主人公というものの異様さが際立つ面白いシーンです。
これも例えば、逆に主人公がこの車を運転する男で、私達がずっとこの男の不可思議な
物語を追っていたのであれば、この不可思議な宇宙からの生命体が降り注ぐシーンも
特に何の驚きも無かった筈です。ちょうど、ゲゲゲの鬼太郎で、鬼太郎が妖怪と墓場で
戦っていても私達は特に何も異様さは感じないのと同様に。
ただその妖怪との戦いのシーンを偶然目撃した普通のサラリーマンは死ぬほど驚くはずで
普段私達は鬼太郎の視点で物語を追っているので、この「死ぬほど驚くサラリーマン」の
心情はなかなか理解できませんが、この「虚人たち」のように完全に逆の視点から描かれると
それがどんなに異様なものであるかが良く分かりますね。
…てな具合に、ここまで「省略」と「主人公・脇役」について、この小説で試みられた
実験について紹介しましたが、この小説の実験はこの2つだけに留まりません。
これ以外にも、「時間」や「事件」「風景」などなど、非常に様々な点で既存の小説では
なされてこなかったような面白い数々の実験が行われております。それら全てを書くこと
はできないので、この小説で行われた実験についてより詳しく知りたい方は「虚人たち」 を
読んだ後に「着想の技術」を読むことをオススメします。「虚人たち」は単に面白い小説
というだけでなく、何かひとつ新しい視点を得ることができるような、そんな力を持った
非常に面白い小説なので、興味があるお方は是非読んでみてくださいませ。